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ハンブルク
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6世紀には、エルベ川河口に港湾都市として存在しており、バイキングの襲来を受けている。 808年、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞がきずかれ、811年にはキリスト教の布教をさらに推進する目的で、砦の近くに大聖堂を建設し、「ハンブルク」としての基礎が整えられる。この大聖堂はまもなく北ヨーロッパのキリスト教文化の中心となったが、しばしば敵対する民族に攻撃された。834年には大司教座がおかれたが、北方民族の略奪をうけて、848年に近くのブレーメンに移された。
ハンブルクはデーン人やスラブ人の襲撃にももちこたえ、1189年には神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世から船舶航行の特許状をうける。この特許状は第3回十字軍への貢献の報償としてあたえられたもので、商業上の特権をみとめるものだった。 また、関税特権、経済特権を獲得したことで交易都市としての発展が進み、1241年にリューベックと、1249年にブレーメンと防衛同盟をむすんだ。同年、シャウエンブルク伯爵より完全な自治を許され、貨幣製造権も与えられる。これはやがてハンザ同盟の成立へとつながっていく。 ハンザ同盟の一員としてハンブルクは富裕な有力都市のひとつとなり繁栄し、1410年、1510年、1618年と三度神聖ローマ皇帝から自由都市の特権を与えられ、自治権を獲得維持した。
1529年には宗教改革をうけいれ、ルター派やカルバン派、そしてユダヤ人の避難場所となった。しかし三十年戦争により、ハンブルクの商業は大きな打撃をこうむった。1783年にアメリカと通商関係をむすんだことで短期間の再興をみるが、その繁栄もナポレオン戦争で終わりをつげ、1810年にはナポレオン1世の軍隊に占領される。だが、ナポレオンの没落後ふたたび自由都市となり、1815年にドイツ連邦に加盟した。 1842年に4日間にわたる火災で市街地は被害をうけ(ハンブルク大火)、1892年にはコレラの流行で8605人もの死者が出た。さらに第二次世界大戦の空襲で壊滅的破壊を受けるが、そのたびに復興。それゆえドイツの中では古い建物が比較的少ない近代都市である。
1871年のドイツ帝国成立の際にも、ハンブルクはどこの州にも属さず独立を維持した。それゆえ王侯貴族の支配なき自由都市としての気風が形成され、それがハンブルク市民の誇りでもある。
1918年11月のハンブルクの人民蜂起はドイツ帝国崩壊の先触れとなり、短期間ではあるが、社会主義のレーテ共和国が樹立された。1938年にアルトナ、ハールブルク、ワンツベックなどを併合。第二次世界大戦では潜水艦基地がおかれ、連合国軍のハンブルク空襲により多くの市民が命をうしなった。1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、その1州となった。
現在、市民にはプロテスタントが多く、政治的には中道左派のドイツ社会民主党(SPD)が強い(ただし近年はCDU政権)など、南ドイツ第一の都市・ミュンヘン市とは、サッカーに限らず、あらゆる点で対照的である。尚、ミュンヘンのあるバイエルン州はカトリックの地盤であり、政治では保守政党のキリスト教社会同盟(CSU)の勢力が強い(ただし、ミュンヘン市の市政レベルではSPDが戦後の大半の市長を輩出している)。

参照:Wikipedia「ハンブルク

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